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レポート:『マイワイの社会』上映会 @南極スペース


館山市のコワーキングスペースで上映会
photo by 早島 英観

房総半島に集中した風習

今日も月一、南極スペースで開かれている民族文化映像研究所の作品を上映する会に参加してきた。

タイトルは、「マイワイの社会」。

( text: 東 洋平 on 15th Jul. 2022)

万祝(マイワイ)とは、漁師集団の網元が大漁の年のお祝いに新調した木綿、藍染め、そして豪華な意匠の入った晴れ着だ。年明けには、皆で羽織って寺社に今年の大漁を祈願したと伝わる。


photo by 東 洋平

どこから、いつ発祥したかは定かではないが、おおよそ、江戸末期と伝えられている。静岡県から北海道に至るまで太平洋側の海岸線で痕跡が残り、特に房総半島に風習が集中した。

主な漁獲物は、イワシだった。イワシは干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)として肥料に使われた。特に、徳島に代表される藍の栽培や綿作と分かち難い密接なつながりがあるという。その後は、煮干しが主流になった。


photo by 東 洋平

漁法は当初、地引き網だった。その後、「あぐり網」という漁法が生まれ、安上がりでより多くの漁獲が得られたため、地引き網を徐々に席巻していったという。

興味深かったのは、このあぐり網をもたらしたのは、紀州から渡ってきた漁師たちという解説だった。彼らは地元に代々伝わる地引き網の技術がなかったため、あぐり網を編み出したということだ。水揚げでは女性も活躍したという。

あぐり網は、調べてみると「巻き網」の一種だそうだ。巻き網は、根こそぎ魚の群れをかっさらうことで、乱獲の問題を招いて、近年マグロに至っては規制も始まっているようだ。

イワシが取れなくなったのがあぐり網に起因したかどうかは分からないが、マイワイを多く発注したのが、あぐり網漁の集団だったと聞いて、一種のバブルを感じた。

その後、“バブル”は不漁ではじけて、昭和初期〜中期ごろから本来のマイワイの発注はなくなったと聞く。

この壮大な漁師のドラマの一端にあるアート作品「マイワイ」から感じることは、アートが繁栄する背後には常に富が存在するということか。

アートは、仮象の産物だ。人間でしか理解もできず、感動もない。一方、言葉が話せれば、象徴が操れれば、貧富の違いなく、受容することができる。そこが、アートの公平性だと思う。

しかし、アートを制作するにはまた別の努力が必要となる。高尚なアートになれば、人生を賭けるほどの膨大なコストをかけて、技術やセンスの鍛錬が必須の世界。凡庸な貧乏人には、アートを極めるというは困難といわざるをえない。


photo by 東 洋平

このマイワイも同じで、映像にはなかったが、意匠は江戸時代に隆盛した狩野派と呼ばれる絵師の職人が提供したという。狩野派は、幕府の庇護を受け芸術性を開花させたが、明治維新で職を失った。

その絵師の新たな庇護者になったのが、バブル期にあった網元だったといえるだろう。


photo by 東 洋平

逆にいえば、いかに房総半島が漁業で隆盛を極めていたのかを今に伝える貴重な資料だということ。長らく不漁が続き、今後も温暖化で漁業がどうなっていくのか知る由もないが、漁民文化と房総文化は分かち難く、房総の歴史的な魅力の柱は漁民文化にあったという結論を導き出すことができると思う。

実は私、これまでの文筆活動で、この手の記事をたくさん書かせていただいた。その発注者は総じて、房総半島の魅力の独自性とは何かを探っていたのだろうと、今ふと振り返る。この歳になって、ようやく理解できてきたように思う。

そして私は、まだまだ若輩者だが、これまでの人生で少し思うことがある。人間が豊かであるためには、適度に忙しく、そして時に暇でないといけないということだ。

Society5.0がそんな世界を実現してくれたらなぁ〜

そんなことに気づかせてくれた「マイワイの社会」。せっかくだから関係ある記事をまとめてみた。興味ある方は、ご覧くださいませ。

( text: 東 洋平 on 15th Jul. 2022)

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