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元ナント市長、エローさんの講演レポート


先日、縁あってジャン=マルク・エローさんの講演を拝聴する機会がありました。斜陽の港湾都市がフランス国民の最も住みたい街に変貌を遂げる。エローさんはそんな大転回時のナント市市長さんです。

その後はオランド大統領の下で首相や外相を務めたフランス政界切っての一流アスリートでもあります。

サッカー好きのためのトリビアとしては元日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ監督の転職先はナント市を本拠地とするFCナントです。

港湾都市として17世紀より活気があった街が80年代、造船業の衰退と共に人口が減り続けます。当時パリを初めとする国内外のメディアはナント市の凋落を「灰色の街」「眠れる森の美女」とこぞって報じます。

造船所の閉鎖、人口減少、不景気という不穏な時代の足音は、ナント市は世界に開かれているというアイデンティティを300年間持ち続けた住民の耳に不気味に響いていました。

ナント市近郊にあるサン=テルブランという小さな町の市長だったエローさんに「ナントの市長になってほしい」という要望が募り、エローさんも住民からの期待を意気に感じて、自分には義務があると出馬の意志を固めたそうです。

1989年、エローさんは選挙に立候補。39歳の若さでナント市の市長に当選します。当時の街の、なんとも暗い雰囲気が印象的だったとエローさんは述懐します。

当選したときに政策のアイデアは何もなかったので、まず初めにしたことは文化事業に携わる人々や大学の研究者にイノベーションのための意見を尋ねて廻ったそうです。

公共政策、住宅政策、文化政策、緑化政策、子供の政策(子供の稽古の月謝から託児所まで!)、トラムの敷設に関する政策。

経済を活性化すること、企業を誘致すること、人を増やすことを目標に設定し、政策の子細については自分の意見を言わないで、専門家に委ねることにしました。

住民に昔のような威厳を持って欲しい、住民を驚かせたい、とエローさんはフェスやイベントをたくさん打ち立てます。

自信を失って家に篭もりっぱなしだった地元住民は徐々に街に出てくるようになりました。それは自分たちも世界に良い影響を与えることができるんじゃないかというポジティブな気持ちを持ち始めたきっかけであり、住民による街の再発見だったそうです。

事実、ナント市の噂は極東の島国に住む私の耳にも伝わってきました。2009年、横浜赤レンガ倉庫で行われたラ・マシンのパフォーマンスを見てYouTubeで調査・熱狂、2012年にナント市を訪れました。

街全体を使った象のパフォーマンスが見たいと渡仏したのですが、工場をリノベーションした施設やゴチックな城など街全体を徒歩で観光したのを覚えています。

ラ・マシンのアトリエを訪れた際にはクリエイターたちの素晴らしい制作環境に木槌で後頭部を打たれたような衝撃を受け、モリモリの創作物に悪酔いし、地べたに横になって朦朧としたのを覚えています。

今思うと『なんでこんなにも天井が高く、横にも広い格好良い空間で、ものすごく時間がかかったであろう狂気的な創作に没頭できるのだろう、金銭的に」と衝撃を受けていたのだと思います。

今回の講演を伺って、ナントなくナントを訪れていたつもりでしたが実はこういった事情やこういった政策サポートをラ・マシンが受けていたのだということに6年越しに気づいた次第です。

ナント市が行った施策一覧

名称内容市が行ったこと反響
Royal de Luxe / La Machine写真にあるような大がかりなアートイベントを行う。造船所を改築し、アトリエとして提供。元々の本拠地であるトゥールーズから移転してもらった。お金は市が出資。噂を聞きつけ、極東の島国から細井少年が観光に訪れる。
La Folle Journéeロワール川沿いで開催されるフランス最大級のクラシック音楽祭。非常に安価な値段でクラシック音楽に触れることができる。反響を呼び、現在は世界中で類似の音楽祭が行われている。
Nuit Blanche(白夜祭)美術館に収蔵される美術品と大衆芸術の垣根を取り去ることを目的にナント市が始めた芸術祭。ストリートアーティストが街のそこここでパフォーマンスを行った。当時、変貌を遂げていたバルセロナやサンクトペテルブルクからアーティストを招聘。道路交通法、消防法の規制を緩めた。ストリートアートが街に繰り広げられ、住民は度肝を抜かれた。
Festival des 3 Continents(ナント三大陸映画祭)アジア、ラテンアメリカ、フランスに特化した映画祭?歩く街頭劇場。
Chateau Des Ducs De Bretagne(ブルターニュ大公城)お城の中に博物館をオープン。?人気が出て、大成功を収めた
Mémorial de l’abolition de l’esclavage(奴隷貿易記念館)三角貿易と称して、アフリカからアメリカに奴隷を売り飛ばしていた。ナントを経由していたので奴隷貿易で最もお金を稼いだ街だった。街の負の歴史を語る。住民は奴隷貿易の当事者ではないが、絶対に後世に伝えなければならないという責任を担っている。街の負の歴史も語ることが重要である。
cargo92(貨物船92)コロンブスがアメリカを発見して500年の記念事業としてアイデアを公募。『貨物船内にナントの街を再現してアメリカに行こう』という企画を行った。アーティストを乗せて、南米大陸の港町に停泊、それぞれの街でコンサート、ダンス、マリオネットなどのイベントを行った。当時県議会議員だった妻が話を持ってきた。古いタンカーを市で購入したところ、いよいよ頭がおかしくなったと揶揄された。初めて直面した最大のリスクだった。最初は批判が多かったが途中から良い報道が増えていった。お金的には儲かっていないが全体的には大成功した。古いタンカーは植民地時代の遺影ではなく未来への新しいイメージとして、国内外に非常に良い印象を与えた。
ESTUAIREナント市中心部から港まで22箇所にリノベーション事業を施設しました。?代表作|ダニエル・ビュラン:ナントの輪
Le Vyage a Nantes「ナントを再発見してください」という観光キャンペーンを行った。キャッチコピーは「海も山も嫌いな人はナントに来なさい」?
外務省の移転フランスは何事もパリが中心で地方都市の現実は厳しい。また地方都市間でも激しい競争がある。70年代、地方分権政策のタイミングで外務省をパリからナントに移転することに成功。外務省職員、何百人分の人口流入。当初(30年前)、物流に無理があると職員は大反対。今は約1,000人の職員が住んでいて、みな満足している。外務省職員は高給ではないので、パリに比べると家賃も安く渋滞がないナントは、断然住みやすいはず。

フランスの市長の任期は6年(変革には時間がかかるので日本の4年は短いというのがエローさんの見解)。

一期目でナント市の経済状況は徐々に良くなってきたそうですが、成功事例にあぐらをかいて眠りこけてはいけないと気持ちも新たに、二期目は街を変えることに特化した政策を行いました。

最大のリスクは「自分が失敗して失脚することだけ」と腹をくくり、政策を進めました。地に足を付けて。出来るだけのことをやってやるぞと勇気と決意を持って。大胆さを忘れずに。

具体的には「芸術家を育てること」「万人に開かれた文化へのアクセス」「リノベーション」。

(芸術家を育てること)

・経済的に困窮しているアート団体には発表する会場を提供し、アトリエが欲しい人には創造する場所を提供する。アーティストには住む場所を提供する。

アーティスト、デザイナー、音楽家、画家はナントに来たいと思っている。たとえ最初は無名でもまずは機会と可能性を与える、それは新しい才能を発掘すること。

結果的に全員が移住するわけではないが、移住する上での障壁はないので何人かが残る。そのことをナント市は20年間続けている。

市はアートイベントを開催するだけではなく、アーティストを育てる責任があると考えている。芸術家が安心して街で暮らせるエコシステムを用意した。

(万人に開かれた文化へのアクセス)

高校生などの青少年、児童生徒が若い頃から文化・歴史に触れることができるように、文化施設に受け入れる政策をとりました。教育政策と文化政策は車の両輪。ただ来てくれと言うだけでなく、政策で解決を行いました。

また経済的困窮者、経済的弱者にも芸術にアクセスできるようにイベントを設計するようにしました。全住民が参加でき、全住民が自由に行き来できる。それは全住民に文化へのアクセスを可能にすることです。

(リノベーション)

前任の市長は保守的な人物でリノベーションに否定的で、古い建物は更地にしていた。私は古い建物にはその街の歴史と記憶が詰まっていると考えます。

著名な建築家を招き、建物外観は古いまま、屋内に新しい息吹を与える。リノベーション事業は住民に歴史を意識してもらう機会にもなりました。

(主なリノベーション事例)

  • 「le lieu unique」としてビスケット工場をリノベーション。本屋・カフェ・託児所・地下には共同浴場のある施設にした。またナント市で一番安いビールを販売している。
  • オペラ座を6年の工期をかけてキレイにした。
  • 閉鎖された歴史ある造船所でショーを行う。廃れた造船所をクリエイションの場所に変貌させる。
  • 第二次大戦中の防空壕あとをアトリエとしてアーチストが使用している。
  • 工場をリノベーションし、スタートアップ企業や美術学校に貸し出している。美術学校の学生は増え続けている。

現在もナント市は人口が増え続けています。完璧な街ではないですが確固たる地位を築いています。国立の建築学校も誘致し、失業者は減っています。

ル ポワン(LE POINT)誌で2年連続、住みたい街ナンバーワンとなり、今後30年で20万人ぐらい増える見通しです。

(ナント市に限った話ではないですが)人口が増えると地価が高くなってナント市の中心に住めなくなってゆくこと、生活費のレベルを維持することが今後の課題になっています。

ナント市の住人、ナント市に住みたいと思っている人々の期待に応えられるかが重要になります。

人口が増え続けている理由は、街を変えても良いんだという住民のポジティブな雰囲気と、経済界、研究団体、文化団体からの資金援助や働きがあるからです。

これらの政策はお金なくしては実現しません。文化イベントを企画するときは、市からの助成も企業や商店のスポーンサードもあります。

国が大予算のイベントを行ってきたのも大きいです。ミッテラン大統領時代に国家予算の1%を文化政策にと予算を増加させ(参考:フランスの文化予算は1%。日本は0.1%)、地方分権への意識が強まり、権限が委譲されました。

その中でナント市は文化政策に15%(!)を充てています。高すぎると批判を受けることもありましたが文化政策はその後の確実な金銭的リターンがあります。公共施設への投資による経済波及効果は1.6倍ぐらいですが文化投資を行うと1.8倍の波及効果があります。

文化が活性化すると地域が活性化する。地域が活性化すると人口が増える。街にダイナミズムを与え、暗いイメージを払拭することが出来ました。

現在、ナント市では国際会議を招致することもできます。国際会議や企業を誘致するには宿泊施設があるかどうか、観光が出来るかどうか、安全の問題、いろんなことが加味されて判断されます。

今までは国際会議を招致するような街ではなかったのですが、公共交通機関や環境の整備、住居の問題などグローバルな意味での展望を市が持つことで変わってゆきました。

「文化は人を解放する」ということわざがフランスにはありますが個人だけでなく公共団体、自治体も開放するのです。文化のイノベーション。好奇心が環境を変えられる。政治的な責任のある人は街にダイナミズムを与える責務がある。

ナント市は【未来に開けた街】になったのです。

(質疑応答)

ナント市の政策はいずれもお金がかかりますが市長任命当初より予算取りは可能であると考えていたのか?またそういったお金のかかる施策を推し進める勇気は蛮勇ではなく、計算の立つ勇気だったのか?

というファシリテーターからのちょっといじわるな質問にも

サン=テルブランの市長としての12年間で地元企業や福祉団体に知己があった。 当時より周辺地域を視野に入れた政策を行っていたし、隣町の市長を長くやっていたことがそういった点で事前に計算が経ち、市長としての下地がある程度あったのは確か

と涼しげに答えました。

会場ではナントの成功事例を、17世紀から文化を大切にしているフランスというお国柄や比較文化論に収斂させる意見も出ていましたが

「私は日本の文化政策はポジティブだと思う」「アーティストには耳を傾かなければならない。アーティストに会って話を聞くのが大好き」と目を輝かせながら語るエローさんの姿勢、思想、哲学には一貫した審美性があり、またエローさんにはあらゆるジャンルを受け入れる素地があり、行政的に実現、解決してゆく能力が高いのだと感じました。

エローさんは若い頃、教会で演奏するような音楽家としての職業を夢見たそうですが経済的な理由により音楽教育を受けることを断念したそうです。

そんな思いもあって、サン=テルブラン市長時代に、機会均一という思想のもと、希望したら漏れなく入れる市立の音楽学校を建てたそうです。

また30,000人以上の街での27歳での市長就任は当時のフランスで最年少だったそうです(当時サン=テルブランは4万人)。

こういった逸話からも、エローさんが政治的エリートであること、結果を恐れずに信念を貫いて行動に移す勇気があることを示唆しています。


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