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南房総・平和をつくる会


「戦後65年―未来へ語り継ぐ声」「話しておきたい70年前の戦争のこと」

世代は入れ替わっても距離は変わらない

南房総市は三芳(みよし)にある市民団体「南房総・平和をつくる会」。こちらの団体が南房総の戦争体験者にお話を伺い、まとめられた本があります。こちらの本をこの夏に読み終えたので紹介させてください。

市民提案型まちづくりチャレンジ事業の一つとして採択されて、20人の方々の証言を冊子にまとめましたのが

  • 戦後65年―未来へ語り継ぐ声 (2011年)

新たに5人の方々に聞き取りをした続編が

  • 話しておきたい70年前の戦争のこと (2015年)

です。

グッと興味を寄せて読んだのは、慣れ親しんだ館山や南房総の地名が房州弁と共に出てくる箇所です。すでに地点や方角、距離感が自分の身体に染み込んでいて、これまで読んできた様々な土地を舞台にした戦争体験というものと異なる回路を伝って届くように感じました。

この本に出会った静かな興奮をなんらかの形で残しておきたいと思い、いくつかのエピソードをここに引用させていただきます。

話しておきたい70年前の戦争のこと

先に読んだのは「話しておきたい70年前の戦争のこと」。

歩いて館山へ

館山には歩いてったよ。歯医者へ通うでもあに(何)でも館山まで歩いてったよ。あたしはね、新婚旅行なんかに行くにもね、那古まで歩いて。那古でね、あの頃、お米.持ったりなんか厳しかったんですよ。それでそこから見つからないように逃げだして、館山駅から乗ったりね。新婚旅行は行きましたよ。伊豆へ行きました。それこそ那古まで歩いて。帰りなんか那古から降りて、この山道をね、暗闇で帰って来た。そういう時代でした。トンネルなんか無かった。この山を越えてね、館山とか那古へ行くには歩いて。
照子が盲腸で入院した時には自転車のケツに乗ってった。何しろ腹が痛いからということで、自転車乗って北条病院まで。自転車だって一軒のうちに一台あればね、旦那が乗ってってしまえば、もう嫁なんか乗るもんじゃないもんね。だからほとんど歩き。嵯峨志のトンネルんかはね、曲がったトンネルだったんだよ。真っ暗だった。曲がってるから、向こうが見えたいから、傘でゴシゴシして、そいでないと堀にはまっちゃうから。そういう時代だった。

鈴木さん、必ず元気で帰ってきな

あの当時は”天皇陛下のために“、”兵隊に行けば必ず死ぬ“ っていう一点張りだった。だから千倉駅でね、まだ卒業しないうちだったから、みんなが、学校の生徒が送ってくれるわけだけど、女たちから、女の生徒あたりから「鈴木さん、必ず元気で帰ってきな」つて言われたよね。そうするとやっぱりじーんとしたあね。うーん、先生がおだてんのは、やれ国のため、天皇陛下のため、やれ男らしい、とかあんとか言うけんね、女たちになればさ。子どもだっぺよー、「元気で帰ってきな」って言われるとやっぱりじーんとくるわね、そういうこともあってね。

現地の人に使ってもらう

終戦時分、我々だって腹が減っちゃってるから、切ないから。終戦で統一取れないでしょ、親分はいないし金はないからシナ人に「使ってくれ」つて言うんだよ。働くから、内地に帰るまで使ってくれって。内地に帰る当てはないけど、「内地に帰るまで食うだけでいいから使ってくれ」って。シナ人は、分かっている人はいるけんね、単純な人間は使うんだよ。我々は使われるのは二の次で何か盗む、食料のあるところを見つけたら盗んで逃げよう、つていう考えでそこに入るんだから。たいていの家は小さくて床下をオンドルって暖房装置で、冬なんかでもパジャマ一枚、裸で寝てるんだ、温かいから。〈この家は金どこか隠してあるかなー〉ってね。四日も五日も一生懸命真面目にやっていけばうすうす大体分かるね。〈ああ、金はあそこに〉。
そうすると仲間が「おい、分かったんか」、「いやまだ、が大体わかった」、「じゃ、やるから」、「おう、」っていってさ、「じゃ、戸を開けておくから」って言って、シナ人が寝たのを見すまして開けておく。そうすると仲間が五、六人来るから、シナ人が何もできないんだよ。我々もおっかながっちゃったふりしてさ。それで我々も、「飯食わしてくれないから帰るよ」、「仲間が向こうに行くから俺も行くから暇くれ」って。そういう生活したあね、一年半ばっかりは。
結局年端が無いでしょ、他人を騙す何かという知恵もないわけなんだ、自分は単純だからね。ただ腹が減るから他人のものを盗んで食う、金が無いからそれ以外はない。後は働いて、一生懸命やれば、ま、くれるて、シナ人はこりごりしてるからそんなにくれないけどただ働く。中には一日、給料呉れるからうちで働かないか、なんて、〈あー、よかった、いいなー〉と、一生懸命やる、でも次の日、一週間、十日も経つと「ああ、金が無いから今日から使わないって。とにかく腹が減るのは苦しかった。
夏に終戦になってね、補給が無いって言うと、仲間が死ぬでしょ、死ぬと裸にしちゃうんだ、自分が着なきゃいけないから。六尺の揮して、で皆埋めたんだよ。「着るよ、悪いけどな、残してくれ」、「残してくれ」つて言いながら涙こぼしてさ、埋めたんだよ、仲間を。戦争は勝ち戦の時は余裕があるから大事に慰霊祭やったり、大事に仏をまつるけどね、負けてね、自分の命が危なくなったらそういうことすらない、負け戦になると死んだ人間はかまっていられないんだから。その時になればこうやって親指をぶった切って、遺骨として形見で持って帰ればいい方で、それなら十個や二十個持たれるわけで、そうやって皆もいで逃げた。後は皆埋めやしない、そこへ置きっ放しだよ。ああだのう、戦争はのう、あんな無残なことはない。うん、行ったもんでなきゃ分からないことって、いくら口で表してもね。やるもんじゃねえや。

小野君のこと

小野三雄君と言うのは二十年の十二月に亡くなったんだわね。その前にもずいぶん亡くなってる、だけど自分の地元にいないというと関心が無いわけだ。千倉から三人がいて、その一人が死んだわけ。その時は内地に帰れるか帰れないかわからないから、向こうで埋葬した、と言ったって掘って埋めただけなんだ。十二月だから、半分くらい埋めてね、後は泥被せちゃう。あくる年昭和二十一年の八月になって、そろそろ内地に帰れるっていうことになってよ、〈だけど、“大将”をここに埋めたままで、おら帰られないよ、家行って、『おまえらの倅は死んじゃったよ』では〉と俺は困った。としたところがね、平群からもう一人、堀川長次ていう人がいたんだよね、それと勝山に二人いるんだけどね、「この“大将”をおいてからおら家にら帰らんねえぞ、お前らその立場になったら帰られるか」なんていって、「じゃ、火葬すべんね、燃すべ」、「だけど燃すたって木がねば」、「あ、いい考えがある」廃駅、戦争中は軍部が駅をこしらえたけん、その廃駅の古い枕木がたくさん積んであるんだよ、「あの下へ隠してしておけよ、それで火くっつけちゃえよ」って。「ああっ、そりゃあいい考えやったなあ」って、そうやった。駅なんかでは街中でないから国民が騒がないんだ、こっちは分かってるから。〈うまく焼けてくれるといいが〉って、なんとか焼けたあね。ま、それを拾って、やっと持って来る気になった。「おお、お前らのお蔭で俺らも内地に一緒に帰んべよ、帰られるよ」って。

八達嶺で戦死を覚悟した

(中略)
「死ぬ」というと、妙なもので、たった一つ、人によって違うでしょうが、お父っあんとお母あんが今頃畑で仕事してんだっぺなあ、って思うでね。あの時分に兵隊さんが出ていきますとね、戦死しますね、そうするとそれを白い箱にこうやって首につって持って行きますね、中に骨があるそうですが、骨のある人なんかそんなにいねえですよ。たとえば海軍さんなんかは海で死んじゃいますから骨なんかあるはずはないですね、何もない筈ですよ。だから最期がどうという時は頭の髪の毛を取ってどこかへ預けておくか、頭の毛があればいい方で靴下が入っていたり、帽子が入っていたりする。
だから、お父つあん、お母っあんは「お前の子どもは死んだぞ、白いのが来るぞ」て言っても「どこで死んだかなあ」って分からない。北支で死んだっていうことぐらいは分かる、手紙寄こしたから北支で死んだ、は分かるけん、どんな気持ちで死んだんかなあっていうのは全然わからない。いつ死んだか分からない、いついっかの何時にどこどこで死んだって、そんな分かる人はほとんどいない。だから、これは「お父っあん、今死ぬかんの、今の、いい気持で死ぬよ、おっかながらねえで死ぬかあの、」ということを知らせたかったですね。そんだけ。生きて帰るなんて考えねえで。したがってこの歌は、志を果たして、明日は空を飛んで闇夜をお父つあん、お母っあんの家に帰ろう、とそんな気持ちですね。

それで、そのあした、あさってになりましたらね、なかなか敵が来ねえで「なかなか来ないなあ」って言って、なあんだ何も来なかったじゃないか、嘘みたいだね、ーまるでM4戦車にからかわれている様である。砲車の方からも交替した仲間達がやって来て、待ち遠しがる。その夜の長かったこと。

佐世保に上がって

(中略)
佐世保の駅に集まり汽車に乗った。乗る前に「解散!わかれ!」というわけでばらばらになった。ぎゅっと詰まってますから腰かける時間はなかった。通路に胡坐をかいて、途中見ると全部焼野原ですよ。「あやー、これはどういう風になってるのかな、うちは」つて思いました。
忘れもしない。大阪のあたりで、女の人が二人歩いていて、しかもモンペを穿いて、色の付いた上っ張りなんか来ているでしょ。「ああいうのを着られるのか」と思いました。「うーん、女はやっぱり女っぽくしてるわ」と思いました。というのは、支那から帰ってくる時、引き揚げの女の人は皆男みたいに刈っちゃってるでしょ。暴行したりなんかしますからね、抵抗できないでしょ、剣も吊ってますからね。だから男だか女だかわからないような、軍隊の古い服なんか来て、頭はぐりぐりになって、これは男かな女かなとわからないようになってますから。日本の国の内地も、女はそんな風だろうくらいに考えていたところが、ちゃんと良い着物を着ていますから。おや、こりやまあ、おお、なあ、と思ったのが大阪の近所でした。
それからずっと東海道線は全部焼野原です。東京へ来たら、皆ばらばらになっていますから、「どっちへ行ったら両国へ行くんだろう」なんて、汽車に乗りまして、船形に来たのですよ。
船形駅で降り、とぼとぼ歩きだした。那古まで来たら親戚筋の家が見えました。
翌年一月に帰りました。

次に読んだのは「戦後65年―未来へ語り継ぐ声」。

戦後65年―未来へ語り継ぐ声

腹を減らしてた兵隊さん

その炊事の野郎どもはの、まんまは殆ど竹筒では食ってねえって。新兵だから。そうすると、鍋の焦げ付きをの、食うだっていうだでよ。あんまり焦げ付かせると、おだされるだでよ。ちょっとばかり焦がしてやればよ、釜の中がよけいになるっぺ。だから、ボンボン燃しての、余計焦がしちゃうだよ。びんたの一つや二つ喰らってもの、食った方が勝ちだ。

中国で見たこと

戦争が長引くと見えたとあって、慰安所という場所があっただからね。日本人だか朝鮮人だか知らないけんね、慰安婦がいたんだから。限られていますけど、師団司令部のところにはあったです。それから、女たちなんかには話できねえけんね、死ぬか生きるかやってんでしょう。性欲がありますやでよ。中国人の婦人を暴行しちゃってね、殺しちゃったですよ。何も殺さなくてもいいっぺなあ、と思ったけんね。一回見ただけですがね。

忘れられない体験

(中略)
今でも思い出すけんね、兵隊でない、農民を私、殺しちゃったですよ。向こうの兵隊と間違って農民を殺した、なんでもない農民を殺した。今でも忘れられないね。だから私も、そこで手を合わせてね、「すまねー」て拝んだですよ。「わあー、わあー」て亡くなっていったですけん、今でも思い出してしょうがねえです。

特攻隊の要員に

(中略)
十七歳過ぎたばかりですから、、国のためにとはいえ、自分も、いよいよ死ぬ番が来たんだ、というような、瞬間的に床から足がぽっと浮いた、というような、そういう感じは、恥ずかしかったけれどもあった。その晩は自分の、自然、自然と、自分の郷里の周辺のことやら何やらいろいろ思い出しながら過ごしましたけれども、翌日になったらもうすっきりしちゃって。それでもう、「よし、おれは国のためにやるんだ、やろう」というような気持ちでもって、おったわけです。

高等小学校を卒業してすぐ挺身隊へ行った

(中略)
昭和十九年、十五歳で尋常高等小学校は卒業して工場へ行ったんですよ。川崎の工場とか、あっちとかこっちとか、五人か六人で分けて、やらせられたです。私は習志野の日立工場さ、寮が佐倉にあって、佐倉から通ってたんですよ。行かない人もいたけど、大体の者が挺身隊に行った。その当時は何処へ行こうてったって、戦争でね、何処へも行かれないじゃない、で、みんなで行ったですよ。
工場での仕事は、機械仕事、仕上げもやるし、普通の工場です。私は仕上げで、ヤスリがけなんかをやってました。機械の人もいました。すごい機械がありましたよ。仕事は先輩の方が教えてくれてね。飛行機の何だかを作っていると言ってました。実籾ていう所で降りて少し歩くんですよ。
日立の工場へは、鴨一の女学生がずいぶん来てました。一緒の寮で、鴨川とか勝浦の人とか、みんな女でね。木更津とか、富津とか、布良とか、ずいぶん来てましたよ。男の人もいましたよ。同い年くらいだね。結構いたでしょうよ。富津、木更津、相浜の方からも行きましたよ。

この習志野の日立工場は毎年花見の時期に地域住民に開放されていて、この町に育った私は何度もお邪魔しています。

強制収用されても保証は無し

(中略)
当時、土地を収用されたり、立ち木を切られたりしたことについては、全く補償はありません。私の家の山削ったり掘ったりしたのはそのままです。修復はしておりません。もう目茶目茶です。だから「日本の国っていうのは、国民を捨てる国なんだな。」と十三歳の頃から頭の隅に入ってしまいました。

昭和二十年の当時の様子

(中略)
庶民生活に戦争が勃発したことで影響はあったと思うんだけどね、統制経済になって、食糧なんかも割り当てで配給制度になって、生活バランスが良くなったことは確かですね。麦飯しか食えなかった人たちが、米の配給をもらうようになって、お米のご飯が食べられるようになったと。そういう面が、多分にあったんじゃないですかね。被害受けた人になると、忌まわしい思いだけだと思うんだけどね。
亡くなった人は、ここでは二人いたかな。機銃掃射ですね。平成になってから和田浦の駅舎の改修工事に立ち合ったけども、梁に機銃掃射の痕跡があった。(後略)

死に対する感覚

木更津で空襲も体験したし、機銃掃射の対象にもなったし。その時の感覚では、日本が負けるような感覚はなかったですね。これをやってれば、本土決戦になってもね、神風が吹いて必ず勝つんだっていうような。これやってれば、必ず世の中良くなるなってね。今の人の感覚とは違うと思う。
その当時はね、死ぬということに対しての抵抗感はなかった。戦後になってみて、例えば、あそこのおばあちゃんは大変だったなあと、子どもを三人も亡くしちゃってというけども、その当時はね、お国のために死んだんだから、胸張っても良いという感覚だと思います。いわゆる平和論者という人たちがね、人間性を追求してどうのこうのって話をするんだけども、社会状況から見てね、そういうことはなかったね。命を大事にしろというようなことは、本人も、家庭もね、ないと思いますね。戦争中はね、人間の尊厳なんてものは、こっちへ置かれちゃってる、と思うね。私たちの年代からすると、平和なものに対する理解もしてないし、平和になって初めて平和の価値がわかるでしょ。
私なんかね、八十年の一生のうち戦争が終わるまでの五年間というのはね、目方では50%ぐらいの重みがある。

戦争が終わった八月十五日

終戦の詔勅は疎開工場の上の寺の庭に全員が集まって聞きました。陛下のお言葉なので、頭を下げて聞いていましたが、普通の人々の言葉と違い、サッパリわからず、白い砂の上をアリが這っていたのを覚えています。
それを機に我々は家に帰りました。学校生活が始まって間もなく、米軍のトラックが数台、安房中へ来て、我々を乗せて館空の飛行場へ連れて行き、近辺に防衛配備されていた日本軍を武装解除した弾薬の集積された数多くの小山のようなものの片付けをさせられました。ドライバーは黒人兵でした。木の箱へ入った火薬をバラ撒いて火をつけて燃やす仕事でした。包んであった布をもらって来て、シャツを作って着ました。爆発も起こりましたが、全員無事でした。引率の井上先生(英語)の「ボーイズ ウォント ウォーター」のことばで、米兵が我々を瓦礫の中の水場へ連れて行き、水を飲ませた味が忘れられません。終戦後は通学にゲートルを巻かずに、履き物は自由になりました。

同級生の半数は戦死

私は大正10年生まれで、戦後何回か小学校のクラス会をやったんですが、同級生が四三人だったかな。その半分亡くなられちゃったですよ、戦争で。大正九年、大正10年って方たちは、一番激戦の時で、一番貧乏くじを引いて。

館山砲術学校へ行く

(中略)
それでね、十一月。夜、十二時、海兵団から歩って、すぐそばから小さい船に乗ってね、どこへ行くっていうのも何も知らせないんですよ。朝まだ暗かった。館山航空隊の館山桟橋に着いた。みんな、どこ行くだ、どこ行くだと思ったけんが、第一線ではないなと。銃も何もないでね歩いているうちに「あれ、神戸でないかな」と思ってね。夜が白々明けたら、そこで小休止。その先行ったらわかった。洲宮神社があった。「こらぁ神戸だぞ」って、みんなが話してね。神戸は有名な「鬼の館砲」だっていうわけですよ。こりゃあ、すげえとこへ行くぞっていうわけで。
買っても負けても、私はつくづくね、戦争っていうものはね、一歩下がって、やるべきもんでないなあって、今になって考えるんだけど。私は、農学校でお世話になった教官が戦死しているからね、沖縄に行ってね。碑を見てきたけどもね、本当に感無量でした。

引き揚げ船で故郷へ帰る

(中略)
館山に着いたのは夜中だったかなあ。バスがないでね、薪を焚いているトラックに乗った。そんで、神余に来たら止まっちまってっさ、そんで12時半ごろ家へ帰ってきたのかな。そうしたら、金がねえからさ、電話も電報も知らせないで帰ったでしょう。家じゃあ、ソ連と戦争始まっちゃったから、死んだもんとばっかり思って、諦めてた。俺は栄養失調やった後だったから、痩せてひょろひょろになって帰ってきたもんだから、「おうい、生きて帰って来たんか」てわけでね。
私は、運が良いていえば運が良いんだよ。広島にいればね、原爆喰ったしさ。シベリアへ持って行かれなかったしさ。だから、死線を超えてきた割にはね、運が良かった。
(中略)
ある日、みんなが迷って色んな憶測をしているわけだけれども、そういうさなかに、「今から名前を呼ぶものは、明日から特別訓練をする」と。何するんだろうって言っていたら、毎日瀬戸内海で味方の船を見つけてはそれに突っ込む訓練だった。名前を呼ばれない人は他所へ転勤になった。そのうちに、みんな集まられ「栄えある神風特別攻撃隊琴平水心隊と命名する」と言われた。このことは「お前たちは、敵の軍艦に体当たりして沈没させ、立派に死ね」ということで、その時は膝ががくがくした。軍人精神を叩き込まれているからびくともしない、死などなんでもない、と思っていても、本当にそのように「死ね」と言われた時は、やっぱり普通じゃないよね。膝ががくがくした。
もう本当にね、あの飛行機の、あのちっちゃい飛行機で落ちていくところなんか見られない、悲しくてね。空襲警報が鳴るでしょ。防空壕の中入っちゃうのね、私ら。こうして覗いて見てるとね、向こうの飛行機とこっちの飛行機で、こう組み合ってやって。陸でやると火事になっちゃうでしょう、陸で。だから陸ではやらんないから、海の上誘うの。上手なもんですよ。ちゃあんと海の上まで引っ張っていって、空中戦やって落っことしちゃうの。強いんだよね、日本の方が。何にもないんだよ、自分の体だけ。それでね、なんで帰ってこないの、そういう時って言うと、帰って来ちゃいけないんだって。怒られるんだって。絶対飛行機ごと落ちなさいって、言われるんだって。飛行機ごと落ちちゃってね。何たって弾薬何もないんだから、鉄砲の弾も何もないで、それでどうして戦争ができるよ。

以上です。ご一読いただき、ありがとうございました。興味を持った方はぜひ千倉図書館などで借りてみてください。この本を読むにはひと手間かかりますが、そのささやかな距離感が地域との新しい繋がりと本に出会う喜びを提供してくれるはずです。

最後にこの本をまとめた「南房総・平和をつくる会」代表 八木直樹さんのコメントを以下に引用させてください。

戦争について理解するには、大きな歴史の流れを知ることも大切ですが、一人ひとりの人間の日常にどんなことが起きたのかということを知ることの方がもっと大切だと思います。戦争を始めるかどうかは国家の指導者たちが勝手に決めるとは限らず、庶民がそれに反対なのか、それとも熱狂的に支持するのかということも大きな影響があると思うのです。結局庶民は兵士として戦場に行かされるだけでなく、都市や軍事施設周辺が爆撃されれば犠牲になるわけですから、戦争の実態を具体的に想像できるならば、戦争に前のめりになることはないはずだと思います。
さまざまな戦争体験を少しでも多くの人に知っていただきたいということが、聞き取りをして本にまとめた私たちの願いです。

参考資料 南房総市内の戦死者、一般戦災死者数


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